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続・すみっこの記

富山生まれ下請けIT育ちのフリーライターが布団の中からお送りします

下町の祭を見ながら思う。他人をのけ者にするのは田舎じゃない、コミュニティだ

富山県の農村部に育ち、東京のすみっこの下町に住んでいるゆのきです。

この休みは各所の神社で例大祭が開かれているようですね。自転車で細い路地を通り過ぎようとしたとき、お神輿が練り歩くのにぶつかってしまい往生しました。

「田舎は排他的である」という考え

「田舎は排他的である」という言い回しをよく聞きます。田舎では隣近所の繋がりが強固で、独特のしきたりがあり、他所から人が入って来ることができないと。

しかし、富山県の農村部で生まれ育った私には、自分の住んでいた地域がそこまで排他的だとは思いませんでした。むしろ、自分が東京に住むようになって(最初は某団地に住んでいました)からの方が、住んでいる地域からの疎外感を感じました。

衰退する田舎と維持される下町

私の生まれ育った集落やその周囲では過疎が進み、とりわけ祭の担い手である私と同世代の人間の流出が止まりません。とうとう若者だけでは祭囃子が成り立たなくなり、青年団を退いてウン十年の私の父が笛を取って、他の集落に応援に参加しているくらいです。

一方、今日私は自分の住む町で、そして巣鴨で祭が盛大に開かれているのを見ました。田舎で野心のある若者は東京に出て行ってしまう、しかし東京の下町に住む若者はその場に住んだまま東京で活動することができる。

他人を排するのはコミュニティ

上で挙げた2例の間の違いとは、前者のコミュニティが衰退しているのに対し、後者のコミュニティは今も維持されているということです。コミュニティが強固であれば他人の入る余地はない、しかしコミュニティが脆弱であれば他人も容易く入り込むことができる。

 

おなじことは様々なところでいえると思います。『テニスの王子様』程の人気作であれば「立海派」「氷帝派」「四天宝寺派」という風にファンは分かれない。『ハイキュー!』のようにまだまだ始まったばかりの作品であれば、ファンはまだ分裂しない。

強い繋がりがあるからこそ、繋がりの外にある存在が浮き彫りになるのではないでしょうか。

それでは、また。

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