【休職日記】Vol.14 創作噺「顔本」
え、世間にゃあ「黒い店」なんて呼ばれる店もあるようではございますが、その実、店なんて奴ぁ老舗に大店、暖簾分けしたばかりの小せぇところまで、どこでも多かれ少なかれ「黒い」ところがあるもんでございます。
新 橋の辺りに暖簾分けしてもう何年も経つ店がありやした。この店がまた、人の使い方がまずいのか、人を使う人がまずいのか、小僧から手代まで、奉公人が病ん だり辞めたりと、なかなか仕事がまわらねぇ。あるときとうとう、暖簾を分けた大店の御隠居が、見るに見かねて店へやってきやした。
「てめぇら、ちゃぁんと人を人として扱ってンだろうナァ?!」
腕利きで鳴らした御隠居がジロリと番頭、番頭株をひと睨み。睨まれた方は堪ったもんじゃねぇ、すぐに奉公人の扱いを見直した。御隠居はつづけて、店にいる奉公人たちをぐぅるりと見渡した。
「てめぇら、この店に不満があるなら俺に言え。なぁに、この俺が番頭どもには文句を言わせねぇ」
それを聞いた手代に小僧、めいめいほっと胸を撫で下ろし、日々の怨みつらみを御隠居相手に語って聞かせやしたとさ。
さぁて鶴の一声で店の仕事が一気に回るようになった。暇を貰う奉公人もいなくなり、仕事は捗る一方だ。御隠居はてきぱき働く奉公人連中を見て、安心して元の店へと帰って行きやしたとさ。
ところがだ、店の仕事が一気に回るようになると、今度は手に負えねぇ商いまで手がけるようになっちまった。これには手代も小僧も堪らねぇ。無理な仕事に胸を病むもの、嫌気が差して郷里に帰るもの、辛ぇ仕事を投げ出すものが出る始末。
それを知った御隠居、頭にカッカと血を上らせて飲んでた湯飲みをひっくり返す。
「何でェ、あいつら、商売の仕方も人の使い方もわかっちゃいねぇのか!」
と ころでその店の小僧に、権助ってぇ奴がいた。得意なこともねぇが、言われた仕事はちゃあんとこなす、時間にだけは正確な奴だ。こいつは店が人の使い方を間 違えようが、店が無理な商いに手を出そうが、一所懸命働いていましたが、そのうちとうとう胸を病むようになりやした。しばらくはお医者に通いながら騙し騙 し働いちゃいたが、ある日とうとう布団から起き上がれなくなっちまった。
お医者が番頭に向かって言うには、「この小僧はしばらく働けません。治るまで暇をやっちゃあ、くれねぇでしょうか」。お医者に言われたんじゃ番頭も「いや」とは言えねぇ。権助は暇をもらって長屋で養生することになりやした。
お医者の薬とじゅうぶんな休みをもらった権助、四ヵ月かかってようやく「奉公先に戻っていい」とお医者からゆるしが出た。権助はそりゃあもう大喜びで、仲間連中に知らせてまわります。
「おぅい八っつぁん、おいら、来月から店に戻るんだ。またよくしてやってくれよ」
「なぁ喜ぃちゃん、おいら、とうとう店に戻れるようになってんでぇ。こうして昼間ッから遊べるのも最後になるナァ」
さて、ところが、権助の奉公先の番頭はえらく耳が早かった。権助が仲間連中に「店に戻る」ことを吹聴しているのを聞きつけて、慌てて番頭株を呼びつけた。
「へぇ番頭さん、いったいなんでしょう?」
「お前、権助が店に戻ってくると知っていたかい?」
「そいつぁ今聞きやした、よかったよかった、これで使える人間が増える」
番頭株の安心顔に、番頭は「おらいりぃ」ナンて書かれた本をぶっつけた。
「痛ぇっ!何するんです、旦那ァ!」
「馬鹿野郎、このトントンチキが。このことが御隠居の耳に入ってみろ、また俺たちが睨まれらぁ」
「ええっ、店に戻ってくるのはいいことなんじゃねぇんですかい?」
「ダメだダメだ、暇をやったことだって御隠居は気にいらねぇんだ。さァ、チョッと行って権助を黙らせて来やがれ」
釈然としねぇながらも、番頭株は痛ぇ鼻を押さえながら権助の長屋まで飛んでいった。それから権助に向かってこう言った。
「権助、おめぇが戻ってくるのはありがてぇ。でも仲間連中に吹聴するのは止してくれねぇかい」
「へぇ、どうしてです。俺の仲間連中はみぃんな俺の病のことを心配してくれてたんで、俺は早いこと安心さしてやりたかったんですが、ダメだっていうんですか」
「とにかくダメなんだ、おめぇが治ったことを吹聴してまわると俺が番頭さんに叱られる。見てご覧よ、この赤ぇ鼻。番頭さんが俺の顔に本をぶっつけたのさ」
「顔に本、そいつぁ怖ぇや、しかたねぇ、もう治ったことは人には言わず、静かに暮らしやす」
げに、顔本というやつは恐ろしいものです。
おあとがよろしいようで。
この噺はフィクションです。実在するサービス、企業、組織、人物とは何の関係もありません。
それでは、また。