続・すみっこの記

富山生まれ下請けIT育ちのフリーライターが布団の中からお送りします

消費される対象としての文庫本と電子書籍

Nexus7を買い、「Kindle」をインストールして、最初に読み始めたのが『マルドゥック・スクランブル The 1st Compression─圧縮 〔完全版〕 (ハヤカワ文庫JA)』だったゆのきです。高校時代一度は本屋で手に取ってみたものの、理解力と想像力が追いつかず、そっと棚に戻した作品です。確か、手にずっしりとした重さを感じる厚さの本であったかと思います。

高校生の私の想像力を超えていた本を、当時は登場することも所持することも予想もしていなかったデバイスで読む。2010年代は充分にサイエンス・フィクション的です。

電子書籍に対する葛藤と検討

電子書籍。この新たな「書籍」の形態を突きつけられた本読みたちは、みな大なり小なり、以下のような葛藤を抱くことでしょう。

物体として買うべきか、データとして買うべきか?

ご他聞に漏れず私もまたその葛藤を抱いたひとりでした。「本」という形態への愛着と、それが増えれば増えるほど空間を圧迫していくことへの恐怖。その恐怖からの解放と、新刊本のにおいを嗅ぐこと・クリーム色の書籍用紙の手触りから離れることに対する抵抗感。

そこで私は自分の読む本をいくつかにカテゴリ分けし、その買い方・読み方・処分の仕方を思い返し、「電子書籍で買うべきか、買わざるべきか?」という篩にかけていきました。

結果として、篩の網の上にころりと横たわったのは文庫本でした。

「文庫本を買う」ということ

私にとって「文庫本を買う」ということは、「消耗品を衝動買いする」ことと同義でした。

本屋の店頭に立つ。書店員の趣味・趣向が表れる本棚の前に立ち、平積みされた本のカバーを順繰りに眺める。日によって――実際のところ、本棚の内容はそう頻繁には変わらないにも関わらず――ひときわ目を引く本がそこに置いてある。手に取り、裏返してあらすじを読み、最初の数ページを読む。「今私の脳に必要なのは、こういった本だ。」そう確信を得たとき、私はその本を手にふらりとレジへ向かうのです。

そのときに「発刊年」や「一般での人気」を考慮することはありません。確かに、再版を繰り返した本や一世を風靡した本であれば新古書店で購入することができるでしょう。しかし新古書店まで探しに行くときにはもう「その本が必要だ。」というフィーリングは消え去っているのです。

「文庫本を読む」ということ

私は上で「消耗品を衝動買いする」と書きました。「私の脳に必要」とも、「フィーリング」とも書きました。

その通り、私にとって文庫本の多くは消費されるものです。

余程好きな作家の作品でない限り、文庫本は「その瞬間の私」に必要な栄養素として私に――それこそ時折無性に食べたくなるセブンイレブンの「野菜たっぷりタンメン」のように――消費され、「本棚へ放置」という形で排泄されることになります。

「本棚へ放置」された本はいずれ新古書店へと運ばれ、50円で売り払われます。「なに、いつか読みたくなったときにはまた買えばいいさ。」そう私は考えます。何しろ、文庫本は――マクドナルドのバリューセットのように――実に手ごろな価格で売られているのですから。

文庫本を買わずに電子書籍を買うという選択

これから私は書店で文庫本を――衝動的に――手に取った際、レジに向かうのではなくスマートフォンを取り出し「Kindle」を立ち上げてその本のタイトルで一旦検索してみることでしょう。無ければレジへ、有るならそのまま1clickで購入し、家に帰ってNexus7で読むことでしょう。Nexus7はあるいは旅行用のバッグに忍び込むかもしれません。実際、去年の帰省時に私は4冊の文庫本を持って新幹線に乗ったのです。

Kindle
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それが私にとって「消耗品」であるならデータで、「コレクション」や「リファレンス」、「参考書」であるなら物体で買う、というのがこれからの運用になりそうです。

それでは、また。

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