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続・すみっこの記

富山生まれ下請けIT育ちのフリーライターが布団の中からお送りします

「あとがき」と「無料配布」と作者の所在地

私が少年少女をメインターゲットとした小説文庫、いわゆる「ライトノベル」に手をつけたのは中学校のときでした。初めて読んだライトノベルコバルト文庫から発刊されていた『ちょー恋とはどんなものかしら』で、この「ちょー」シリーズは企画本も含めて買い揃え、今も手元に置いてあります。

「あとがき」という名目の自分語り

「ちょー」でも「東京S黄尾探偵団」でも「スレイヤーズ」でもそうなのですが、私が「ライトノベル」と聞いて連想するのは「あとがき」の存在です。

ちょーシリーズ」の野梨原花南さんなどはよく「私はコネで小説を書かせてもらっている身なので」という自虐的なあとがきを書いていましたし、「スレイヤーズ」のあとがきはあんな感じですが、そういった「作者の近況やネタばらし」的なページは小学校まで私が読んできた推理小説にはないものでした。(レーベルによるとは思いますが。)

「あとがき」という名目の数ページに渡る作者の自分語りは、読者にとって作者の存在を身近に感じられるものですが、中学校になり書き手という視点を意識するようになると、「数ページの自分語りをするには1冊分の小説を書かなければいけない」ということになるな、と思ったことを覚えています。

名刺代わりの無料配布

話は変わりますが、コンスタントに同人誌即売会に参加するようになった私は「できるだけ全年齢向けの無料配布を持って行く」ということを意識するようになりました。それにはいくつかの理由があります。

まず、地方で開催されるイベントに参加するのは成人向けの内容を含む本を手に取ることができない、中高生が多いということでした。大人になって経済力を得た同人者の足は自然と都市に向くので、本は都市に集まり、地方ではグッズの頒布がメインとなります。そうした地方イベントで1冊でも多くの本を手にして帰って欲しいという気持ちが第一の理由です。

もうひとつの理由が、小説書きは何とかして中身を見てもらわなければ興味を持ってもらえないということでした。極端な話、絵描きはポストカード1枚作るだけでファンがつきます。表紙の絵とカップリングだけで本が買われることもあります。しかし小説は一旦手に取ってもらって中身を読まんでもらわなくては次回以降興味を持ってもらえません。

特に私は初めて大きなジャンルで大きなイベントに出たとき、私を知っている人は誰もいない、私の本を買おうと思う人は誰もいない、せめて名刺代わりの無料配布だけでも受け取ってもらおうと、2冊の新刊とは別に20ページを超える無料本を配布していました。

作品を通してでしか作者の姿は見えない

上で述べた「あとがき」と「無料配布」の例に共通していえることは、読者は作品を通して初めて作者に興味を持つということです。第三者にとって作品がないところには誰も人間がいないのと同じなのです。

これは何も小説だけにいえることではなく、絵でも、ブログでも、音楽でもそうです。人々が第一に目にするのは作品であり、作品があってはじめてそれを作った人間の存在が意識されるのです。

「私はここにいる」

ライトノベルで、ヒロインがグラウンドに描いた絵で「私はここにいる」と宇宙に向かって叫ぶ話がありました。それと同じように、私は今「私はここにいる」とワールドワイドウェブに向かって叫んでいます。このブログは私の作品のひとつといえるでしょう。

涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫)

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それでは、また。

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