続・すみっこの記

富山生まれ下請けIT育ちのフリーライターが布団の中からお送りします

【お題SS】炊飯器

 デスクの上に置いたスマートフォンが震えるのを見て、智晶は忙しなくキーボードを叩いていた指を止めた。数秒震えた後に再び息をひそめた端末を取り上げて、なめらかな手つきでロックを外した。一件の未読メールがあります。画面をタップする。
『カレーを食べたいな』
 その一行は目から智晶の中に入り、耳の奥で敦の甘えるような声になる。智晶の作るカレー、好きだよ。智晶は頭を振ってからパソコン用の眼鏡を外して目元を指で揉みほぐした。長時間ディスプレイに向かい続けて凝り固まった上体をううんと伸ばしてから、天井に向かってふうと息を吐いた。自分の他に誰もいないリビングに、中央線の通り過ぎる音が微かに響いた。
 飯田橋駅の近くの1LDKの賃貸マンションは智晶の家であり、仕事場である。取引先とも行き来がしやすいし、何より敦の職場から歩いてすぐのところにある。敦が仕事帰りに寄れるように。それだけのために智晶はこの部屋を借りた。
 智晶は椅子から立ち上がってキッチンへ移動した。スマートフォンはサマーニットのポケットに入れた。綺麗に片付いたカウンターキッチンに立って、まず最初に米を研ぐ。蛇口から流れ落ちる水に手を浸して米を洗うと、透き通っていた水は炊飯釜の中で白く濁った。何度か水を換えて繰り返し洗う。水がほとんど濁らなくなってから炊飯器に釜を入れ、蓋を閉めてスイッチを入れる。
 シンクの下の収納扉を開けて玉葱とサラダビーンズの水煮とカットトマトの缶詰を、冷蔵庫を開けてセロリとズッキーニと茄子、それからカレーフレークを取り出した。玉葱は頭と尻を包丁で切り落として皮を剥いた。その他の野菜は水洗いして、セロリは根元の固い部分を落として筋を取り、ズッキーニと茄子はへたを切り取った。
 しばらく野菜を賽の目切りにする単調な音が続いた。包丁を握る右手の薬指には欠片みたいなダイヤモンドが嵌まった指輪が光っている。手元を注視していると、それは否が応にも目に入る。
 ステンレスのボウルを刻んだ夏野菜にしてから、鍋を取り出して火にかけた。冷凍庫からラップに包んだ合い挽きを取り出す。鍋が十分に温まったのを確かめて、脂が白く固まった、凍った挽肉を入れた。特売日にまとめて買って炒めて凍らせておいた挽肉の塊から脂が溶け出し香ばしい匂いを立てた。
 木べらで押し潰すように挽肉を鍋の底に広げたら、その上から刻んだ野菜を投入する。肉と混ぜ合わせているうちに野菜の山に火がまわり、脂が染み渡って嵩が半分ほどになった。
 カットトマトの缶詰を鍋に空ける。汁がじゅわっと音を立てる。粉末のコンソメを上から振って、ローリエの葉を一枚加えた。軽く掻き混ぜてから鍋に蓋をする。智晶はカレーを作るときに水を加えない。カットトマトと野菜の水分だけで、旨味が凝縮された濃いカレーになる。
 鍋の火を弱め、智晶はその場に立ち尽くした。薄いカーテンの向こうに夜の闇が広がっている。神楽坂や富士見といった高台に建ち並ぶビルの窓から煌々と明かりが漏れている。
 気がつくと右手の指輪を弄っている。黒い縁取りのあるステンレスの指輪は後楽園のショッピングビルで敦が買ってくれたものだ。智晶はこういうの似合いそうだよね。智晶の細長い白い指にその指輪はアンバランスな彩りを与えた。智晶にはその指輪が犬の首輪のように思える。所有物であることの証のようだと感じる。
 敦は成増の実家から富士見の職場に通っている。妊娠させてしまったどうでもいい女と結婚して、どうでもいい両親と同居している。どうでもいい女はどうでもいい子供を産んで、どうでもいい両親と実の子である敦よりも余程上手くやっているという。俺がいなくてもうちは大丈夫なんだよ、と口癖のように言っている。
 ぐつぐつと鍋が煮立つ音がする。蓋を開けるとトマトのゆたかな香りを含んだ湯気が立ち上った。智晶はサラダビーンズの水気を切って鍋に空けてから火を止めて、カレーフレークを散らした。木べらでフレークを煮汁に混ぜ合わせていく。香辛料の匂いが鼻腔を擽る。
 鍋をかき混ぜながら煮込んでいると、どうしても敦のことを考え始めてしまう。広い背中やしっかりした首のことを、大きな手や淡く生えた胸毛のことを考える。汗と体臭の混じった甘い匂いを、いつでも億劫そうな声音を思い出す。
 不意に目頭が熱くなった。ダイヤモンドの欠片のように、目の端から涙が零れそうになった。上を向いて堪えていると、炊飯器が炊き上がりを告げる電子音が響き渡った。それと同時に玄関の鍵が開くがちゃりという音が聞こえた。
「ただいまぁ」
 間延びした挨拶、靴を脱ぐ音、廊下を踏みしめる音。それから夏用スーツに身を包んだ長身がぬっと部屋に入ってくる。智晶は何食わぬ顔で彼を迎えた。
「おかえりなさい」


 テーブルにカレーライスと、刻んだ水菜とフルーツトマトのサラダを並べて夕食にした。テレビでは雛壇に座ったタレントたちが喧々轟々と喚き散らしている。テロップが踊る煩い画面とは逆に、ふたりが食事をとっているダイニングは静かだ。
 敦は面倒くさがりで気紛れだ。こちらから話しかけては機嫌を損ねることもある。話したいことがあれば自分から話し出す。そういうときの敦は饒舌だ。それ以外は基本的に無口だ。


 今日は食事だけで帰るという敦を、智晶は玄関まで見送った。細いストライプを織り込んだグレーの上着を着せてやると、敦が振り返って智晶の小さな顎を掴んだ。
 薄い唇を吸われる。ぬるりとした舌は夏野菜のカレーの味がする。智晶は胸が一杯になった。
「智晶、」
 顔を上げて。
 言われるままに顔を上げると、敦は顔を傾けて智晶の飛び出た喉仏に噛み付いた。犬歯ががりりと喉に喰い込む。甘い痛みに智晶は上を向いたまま目を眇める。
「ばいばーい」
 智晶の首から口を離した敦は、子供じみた挨拶をして眠たい目でにっと智晶に笑いかけた。長身が鉄のドアの向こうに消える。これから有楽町線に揺られて、どうでもいい家族が待つどうでもいい生家に帰って行くのだ。
 キッチンに戻った智晶はシンクで水に浸した食器を洗う前に、炊飯器に残った白飯を冷凍容器に移し替えておこうと思った。しゃもじを手に炊飯器の蓋を開ける。温かい湯気が立ち昇る。
 その優しい匂いを嗅いで智晶の目から今度こそ涙が溢れた。両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。

 どうでもいいのは、自分も同じであろう。

 帰り道に智晶の家がなくても、敦は自分から智晶の家に来るだろうか。智晶が食べたいものを食べたいときに、いつでも用意して待っているような男でなかったら、敦は智晶の元へ足を運ぶだろうか。きっと否であろう。
 敦にとって智晶はどうでもいい不倫相手だ。居心地の良さ故に安い指輪でキープしているだけの相手だ。自分はきっと、いつまでも「どうでもいい」以上の相手にはなれない。面倒になったらあっさりと切り捨てられるのだ。
 智晶は洟を啜って立ち上がった。熱いご飯を容器に移している間、ずっと唇を噛んでいた。

 


 一部界隈で「炊飯器」をお題にSSを書くのが流行っていたので乗っかってみました。2700字強くらいです。

 

それでは、また。

群青の夜の羽毛布 (幻冬舎文庫)

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